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天皇陛下の親拝問題

靖国神社問題 - Wikipedia  より

 

昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度

1945年1952年1954年1957年1959年1965年1969年1975年

靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、

親拝を行っていない。この理由については、

昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたからという仮説があったが

具体的な物証は見つかっていなかったが、

宮内庁長官であった富田朝彦による「富田メモ」及び侍従卜部亮吾による

卜部亮吾侍従日記」に、これに符合する記述が発見された。

平成の現在も今上天皇による親拝中止は続いている。

なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。

戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、

1975年(昭和50年)8月三木武夫首相は

「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、

個人として参拝した」と発言。同年を最後に、

それまで隔年で行なわれていた天皇の親拝が行なわれなくなったのは、

この三木の発言が原因であると言われていた。

しかし、2006年になって、1988年(昭和63年)当時の宮内庁長官富田朝彦のメモに、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことが記されていたことがわかった[16]

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

日本経済新聞社「富田メモ研究委員会」は

「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、

不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。

他の資料として有名なものに卜部亮吾侍従日記などがある。

富田メモ以降、合祀問題を原因とする解釈が現在のところは

有力ではないかとされる事が報道的な見方としては多い。しかしA級戦犯の合祀は1978年(昭和53年)であり、富田メモ及び卜部亮吾侍従日記への疑義は残る。

他方、御親拝は不定期に数年毎行われていたもの。

また勅使者の祭祀継続性と関わりはないとする意見がある。

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